わたしの読書あれこれ(その2);第回目
諫山 禎一郎
  今年の3月19日、新宿高島屋の紀伊国屋サザンシアターで、立花隆氏の「知の現在」という新潮社の文化講演会があり、どんな話をするか興味があったので、聴きに行った。会費千円、満員の聴衆であった。
 まず、英国の科学者であり、文学者のC.P.スノー(1905~1980)の著書「二つの文化と科学革命(The Two Cultures : A Second Look)」 邦訳は松井巻之助、1967年1月第1版、1984年11月第2版、 みすず書房刊の紹介があった。スノーは、科学者と文学的知識人すなわち非科学者とはお互いに無理解であり、共通なものはない。非科学者は、ちょうど生まれながらのラダイト(産業革命において機械が失業の原因であると誤信して破壊暴動を起こした職工団員のこと)というべきであり、今後の世界は、両者の理解なくしては発展しえないが、むずかしいという。
 このような、いわば文・理の対立は、今わが日本の大学でも現実にあり、立花氏は東大教養学部の授業で、それにチャレンジしようとしているのだという。同氏の授業内容は、インターネットで公開されており、学外からでもだれでも自由に見ることができる。学生には、問題の取り組み方、調査、発表の方法を示している。この授業は好評のようで、学生の成果発表が、単行本二冊になっていて、「二十才のころ−東京大学教養学部立花隆ゼミ『調べて書く』共同製作−」(1996年11月)と「二十才のころ−第2集−」(1997年1月、 いずれも立花事務所刊、700円と1000円)であり、なかなか読ませる内容である。学生が関心のある人物にインタービュー調査して、その人の二十才のころのことを対談形式でレポートしたもので、有名、無名の人に当たっている。ホームレスの人や自分の父親の場合もある。同氏もいう通り、なかなかの書き手もいる。昨今書く能力が失われているというが、指導の方法によっては、ここまでできるのだ。この話から、現在の日本の大学のタテ割りの学問研究の体制の欠陥、専門課程科目の早期取得による一般教養課程(リベラル・アーツ)の軽視に続く同課程の崩壊、それに反し学際的研究の必要性と学生の基礎教養の欠如などや、コンピュータ・リテラシーについての日本の水準の紹介と批判があった。リテラシーとは、読み書きソロバン能力、いわゆる基礎能力のことをいいい、パソコンで文章を書く能力、文献や資料をインターネットなどで検索する能力、表計算ソフトなどのソフトウェアの駆使力などがこの基礎能力を意味する。今の学生は、 これをもっていることが当たり前になってきているという。OHPを使っての説明も、具体的で説得力があった。日本の大学の現状について、同氏は文芸春秋の今年の9月号に「知的亡国論」と題して詳細に述べているので、 一読を薦めたい。
 立花氏については、以前から関心をもっていた。 文芸春秋社の読書誌「本の話」創刊号の同氏の読書歴特集が、単行本「ぼくはこんな本を読んできた」(文芸春秋社)になり、紙価を高からしめた。なかでも小学校三年で山本有三、志賀直哉の全集を読み、小学校卒業までに河出書房の世界文学全集を読んで、それまでに読んだこども向けのダイジェスト版と本物が違うと実感したのだという。エピソードはこのほかにもたくさん出ており、まさに恐るべき小学生である。中学生になっても、学校図書館だけでは飽き足らず、市立図書館、県立図書館と利用できる限り借りて読んだそうだ。分野も文学、歴史、哲学から科学まで幅広い。こどもの頃は科学少年だったそうで、これが後の宇宙開発や脳死などの著作に発展している。また、あの田中首相失脚の因となった「田中角栄研究」から「日本共産党の研究」(いずれも講談社文庫)と、どの党派にも肩入れしない態度が人気を呼ぶゆえんであろう。最近の著書では「立花隆の同時代ノート」(講談社)で、小沢新進党首の言動への批判、菅直人氏との対談における霞ヶ関官僚たちの実態報告などは、日々の新聞、テレビの報道では分かりにくい現象を鋭く分析しており、興味をそそる。週刊文春の輪番での「私の読書日記」も、おやっと思わせる本の紹介があり、毎回関心をもって読んでいる。それにしても、恐るべき読書量と範囲である。世の中には、こんな天才的な人がいるものだと、いつも感心している。(1997年8月)