| わたしの読書あれこれ(その43) | ||||
| 諫山 禎一郎 | ||||
| 雑誌サライ(月二回・小学館発行)を愛読している。わたしのような中高年世代が好む読み物が多いせいか、同じ世代の読者の投稿欄には読んで感激したことがよく出ている。その別冊「珈琲」特集号が、十二月に出た。この「珈琲」という言葉はコーヒーの当て字の一つであるが、そのコーヒーに関する歴史、種類、思い出などが書かれていて、中でも川本三郎と阿川佐和子のエッセイがおもしろかった。川本のは、得意とする映画の話が随所に出てきて、昭和二十八年に作られた成瀬巳喜男監督の映画「妻」に出た東京・西銀座のクラシック音楽を聴かせる名曲喫茶「らんぶる」のことが書かれている。この店は、近年までソニー・ビルのそばにあったが、今はない。これを読んで、わたしは学生時代の昭和三十年頃に嘉穂東高校の一年下のA君と、この店によく通ったことを思い出した。この店には、同じ嘉穂東の一年上のTさんという女性がウェイトレスのアルバイトをしていて、ときどきお目にかかった。彼女は、おとなしい人で、あまり話したことはなかったが、当時大学に在学中だったと思う。今、同窓会名簿を見ても、住所欄は不明になっている。 その頃は、コーヒーの味と程良い店内の雰囲気を売り物にした純喫茶といわれる店がいたるところにあり、友だちとよく行ったものだ。純喫茶の中に名曲喫茶というのがあり、当時は電蓄とレコード盤が貴重品で、勢い名曲喫茶が聴かせる場所であった。幾つかの名曲喫茶に通ったが、今では殆ど閉店してしまったようだ。 一方、仕事上でのコーヒーとのつきあいは長い。一時、取引先との打合わせが多く会社の応接室が足りなかったので、近くの喫茶店を渡り歩き、コーヒーを毎日七、八杯以上飲む破目に陥ったことがある。飲む機会が増えると、当然飲むものは自然に薄味のアメリカン・コーヒーといわれるものになってしまっていた。 飯塚の喫茶店では、えびす通りにあった「僕のうち」を思い出す。昭和三十年頃、同じ年のイトコとよく行ったものだ。今、同店のマッチを見ると、甘党のみせとなっているが、コーヒーの記憶しかない。その後の店のことは分からない。最近飯塚に行くと、決まって行くのは本町の「覇薇可否道」である。これは、<はらコーヒーどう>と読む。この「可否」という言葉は、前述のサライ別冊では、「かうひい異名熟字一覧」として、六十あまりの名前がある中に、明治二十一年(一八八八年)に登場したとある。この店は、本町通りのビルの奥に店があり、昔風の純喫茶で店内は静か、その日の特選のコーヒーがうまい。栢の森に本店が、コスモスコモン前にも店がある。 それにしても、最近の純喫茶の衰退ぶりはひどい。ドトール、スターバックスなどのチェーン店など一杯百八十円が当たり前になり、百五十円のチェーン店も出現している。それに、マクドナルドなどのハンバーガー・ショップもコーヒーを用意しており、わたしも忙しい時など、平日半額のハンバーガーを食べて昼食を済ませることもある。この半額セールは人気があり、先日も都心のビジネス街で、昼時に老若男女が店外まで列をなしているのを見た。また、郊外のショップでは幼児連れの母親も多く見かける。幼児の頃からあのハンバーガーを食べているのを見ると、頭の堅いわたしなどハンバーガーが第二のおふくろの味になり、日本の将来はどんなことになるのか少々心配になる。アメリカ生まれのショップの狙いも、そのおふくろの味を目指しているという人もいる。 このような最近の日本人の食生活の変化を書いたものに、中村靖彦「コンビニ ファミレス 回転寿司」(文春新書)がある。飽食の時代の食料自給率の問題やその将来をも論じ、読ませる内容である。 話を別冊サライに戻すと、インスタント・コーヒーの出現で、わが国のそれまでのコーヒー消費量は一挙に拡大したのだという。わたしは、インスタント・コーヒーがきらいで、レギューラー・コーヒーを愛する一人である。家に居るときには、旅先で買った大きなカップにたっぷり入れて飲むのを楽しみにしている。砂糖なしで飲み、ミルクを入れてもかき混ぜないで飲むのが好みである。そのカップは、昨秋イスラエルで買った魚とパンのモザイク画のものと五月に行ったアメリカ・ワシントンDCのナショナル・カテドラルのステンドグラス模様のものが気に入っている。(二○○○年十二月) | ||||