わたしの読書あれこれ(その42
諫山 禎一郎
 十月は、東京・飯塚間を二度往復した。二十一日に母校の嘉穂東高校の創立九十周年記念式典が同校であったので、同窓会東京支部を代表して出席した。体育館で約一千名の生徒とともに、祝賀式典が行われた。共学最初の男子卒業生の石崎憲司テレビ長崎副社長が「進路−二十一世紀の選択」と題して記念講演をした。わたしたちの時代とは違い、情報過多の現代では、情報を適切に選択して進路を決めることが肝要と話した。ちなみに、同氏とわたしは東京・下北沢の三菱鉱業学生寮で大学生活四年間ともに暮した仲である。また、同日「嘉穂東新聞」の復刻版が記念発行された。わたしは、高校時代に編集長を経験しており、その縁で昨年来この出版に協力していたので、どんな本になるのか内心ソワソワしていた。手にしたときはホッとし、正直うれしかった。私の在学中の新聞は収集できず欠号が多いが、それでも当時を思い起こすのには十分であった。この記念誌は、昭和二十三年の創刊から六十一年まで続いた新聞をまとめたものであり、A4判、四百十八ページ、二千五百円で頒布されている。いわば同校の歴史の一面を物語るものであろう。
 一週間後の二十九日には、同校の同窓会総会が「のがみプレジデントホテル」で行われたので、これにも出席した。総会前の十一時に、同ホテルで嘉穂東新聞部OBOG会を開催することにし、九月に全国に散在する約百二十人に予告した。集まったのは十人だったが、岡山、熊本からかけつけた人もあった。早速在学中の思い出話になったが、皆高校時代は新聞部の活動に尽きるとのことであった。それだけ部活動に青春の全力を投じたのである。ここでは、顧問だった故児島隆人先生と故篠木毅先生(今年七月逝去)のご遺族へ記念誌を贈ることを決めた。
 この日に先立ち、前日に庄内中学の同期会が「筑豊ハイツ」で行われることが急遽決まり、それにも出席することにし、久しぶりに旧友たちと再会した。野見山俊朗先生(筑穂町在住)と池田重男先生(庄内町在住)が出席された。池田先生には卒業後初めてお会いしたが、お二人とも六十代のわれわれより若い感じがした。
 また、福岡市立美術館で開催されていた「無言館所蔵による戦没画学生の祈りの絵展」も見た。無言館は、長野県上田市にあり、戦没画学生の遺作を集めた美術館である。無言館のことは、本誌一昨年十月号にも書いた。今夏にも再度訪れたが、福岡では、どのような展示をするのか興味があった。上田と比べて、少々照明が明るいと思ったが、いつ見ても感動する絵ばかりであった。
 そのほか、以前から行きたいと思っていた博多湾に浮かぶ能古島を訪ねた。姪の浜渡船場からフェリーで、島へ渡った。船旅はわずか十分位であったが、海風が心地よかった。訪ねたかったのは、敬愛する作家檀一雄の文学碑と旧宅である。日中一時間に一本のフェリーの発着時間に合わせて、約二時間島を歩くことにして、まずバスで終点の島の中央高地にあるアイランドパークまで行った。そこから森林浴をしながら文学碑へ歩いた。絶筆「モガリ笛いく夜もがらせ花ニ逢はん」の碑文を読む方角に、糸島半島小田の浜が遠望できる。小田は、彼の前妻リツ子が亡くなったところである。名作「リツ子その愛・その死」を思い出して、感慨深くなった。また、何かしら碑の建立者の気持が分かるような気がした。続いて向かった標高一九五メートルの場所に立つ展望台からは、島の周囲が眺められるが、北に玄海灘、南に福岡の街が見える。バスは満員であったが、ここまで歩いて来る人は少なかった。それから、山を降りて旧宅を訪ねた。家は南斜面の丘に建っているが、今は誰も住んでいないように見えた。ここからは、福岡の街が一望できる。彼はここで晩年の二年間過ごしたそうだが、夕暮れから夜にかけて、灯のともる福岡の街をどのように見ていたのであろうか。いい場所を選んだと思った。
 ついでながら、十一月下旬に甲府市の山梨県立文学館で開催されていた「太宰治・檀一雄展」を見に行った。一雄は同県都留市で生まれていることから、開催されたもので、数多くの遺品が展示されていた。「モガリ笛…」の色紙もあった。また、能古島の家の床の間にあった中国の哲学者蔡元培の二つの掛け軸もよかった。そのほか、一時住んだポルトガルで詠んだ「落日を拾ひに行かむ海の果」の色紙は、描かれた大きな夕日とともに強く印象に残っている。(二○○○年十二月)