わたしの読書あれこれ(その1);第三回目
諫山 禎一郎

 昨年暮れにD.H.ロレンスの文庫版「チャタレイ夫人の恋人」が、完訳版として新潮社から出版された。これは、長い間、伊藤整訳がわいせつ出版物として発禁になっていたが、その発禁部分を復刻し、子息の礼氏が古い表現を直し補訳したものである。
 思えば、私がこの伊藤整の訳本を読んだのは、嘉穂東高校の生徒のころ、昭和二十五、六年頃であった。ちょうど発禁騒動の最中で、毎日文学書を学友たちと読みあさっていたころであった。学友のT君の兄が、中央大学の学生で東京で購入して、飯塚の実家に持って帰って来たものだった。小山書店版の瀟洒な装丁で上下二巻、どこが発禁になったのか興味をもった。ただ、当時の読後感としては、発禁部分だけが目立っていて、そのほかの部分は何か難解な感じがしたことだけを覚えている。今回読み直して見て、当時の私の年齢から考えると、難解であったことは当然であったと思う。そして、その後十年位、削除版も出版はされなかったと思う。昭和三十年代後半だと思うが、新潮社の世界文学全集にこの削除版が入り、後新潮文庫にもなって、これまでチャタレイといえば、削除版のこの文庫版のことだった。この発禁本を読んでから十数年後、確か昭和四十年頃、東京・下北沢の古書店で偶然この発禁本を見つけた。懐かしい装丁の上下本、あまり古ぼけてはいない。早速購入したが、確か手頃な値段、千円か、二千円しなかったと思う。発禁そして回収されていたので、よく店頭に出ていたと思った。こんな幸運なことがあってから、この古書店には、珍本をひそかに期待して、今でもときどき寄ることにしている。実は学生時代、下北沢に父の会社(三菱鉱業)の従業員子弟のための学生寮があり、そこに大学時代の四年間住んでいたので、この街に愛着があり、当時からこの書店を利用していたからである。そういえば、この書店では、先年野田宇太郎の文学散歩シリーズの東京編数冊を見つけ購入した。野田宇太郎は、出身地の福岡県小郡市に、野田宇太郎文学資料館が昭和六十二年から開館し、蔵書、資料が寄贈されているそうだ。一度訪れてみたいと思っている。この文学散歩シリーズは、昨今の文学散歩や文学館創設を予見する作品ともいうべきもので、東京から始まり全国各地の作家の生地、足跡、碑などを紹介しているシリーズものであり、小田切進編「日本近代文学年表」(93年12月小学館刊)によると、昭和三十六年一月〜四十一年十月まで発刊とある。足りない東京編数冊も東京・八重洲ブックセンターで見つけたが、あと一册欠けている。版元に在庫を問い合わせたが無く、今からどこか古書店ででも見つけなければなるまい。前記のように昭和三十年代後半の発行であるので、古書店にあるのは当然と思うが、新刊書販売専門の八重洲ブックセンターには、こんな本まで棚に並べていて在庫しているのには恐れ入った。最近の東京の都心の大型書店は、品揃えではこれを見ても分かるとおり何でも揃っている。新宿の高島屋デパートの新しい紀伊国屋、池袋の西武デパートのリブロなど巨大化を歌い文句にしている書店が増えた。福岡銀行調査月報97年6月号を読むと、福岡市天神地区でも巨大書店ブームで、既存のりーぶる天神と紀伊国屋に加え、丸善、リブロが進出し、今秋開店する三越には八重洲ブックセンターが進出するとかで激戦地となるのは間違いない。販売競争の行方が気になるが、読者・購買者にとっては、歓迎すべきことであろう。私は、いままで飯塚へ帰省する度に、これら天神の巨大書店に立ち寄り、関心のある郷土史関連の新刊書を必ずチェックすることにしている。東京では、まずお目にかかれない九州の郷土史書にめぐりあったこともある。巨大書店がこれだけそろえば、今後の激戦は必至で、私の読書欲を満足させる楽しみは倍増しそうだ。一方、この競争の陰に、中小書店がつぶれ、CD、ビデオなどの併売などへ方向転換する例も多いと聞く。従って、ますます品揃えで強い巨大書店に人が集まるわけだ。
 話が変な方向に行ってしまったが、チャタレイを今読んで見ると、当時のイギリスの社会、貴族などの階層・階級意識、女性の地位、性の問題などに対して、挑戦的な作品を発表したものであることが分かる。また、昭和二十年代の日本の社会の性に対する考えも、発禁にする社会的背景をもっていたのである。現今、性に対し自由である社会環境を考えれば、何か夢物語のような気がするのは私だけであろうか。終わりに、この訳は前の訳に比べ非常に読みやすい文章であることもつけ加えておきたい。
  (一九九七年七月)