| わたしの読書あれこれ(その25);第二一回目 | ||||
| 諫山 禎一郎 | ||||
| 近ごろ、「自分史」を書き、出版することが静かな流行になっている。これは、人生八十年が当たり前になり、静かに考える時間的余裕ができたこと、ワープロなどの機器の発達によって簡単に原稿が書け、推敲、そして印刷ができるようになった影響もあろう。最近は、「自分史」というが、以前は自伝といっていた。他人が書けば伝記となる。
本を読んだことで初めて知ったことだが、北九州市は自分史文学賞を創設し、昨年で九回目になるという。九回目の全国からの応募約四百点の中から、大賞を受賞したのは、折世凡樹「黒獅子旗に燃えた男たち」(学研)であった。昭和十二年生まれの著者が、同年に都市対抗野球大会に優勝した八幡製鉄(今の新日鉄八幡)野球部の足跡を書いたものである。この優勝までには、日中戦争が始まった年のことゆえ、主将、捕手、それに監督にまで召集令状が来てチームを離れるという悪条件下に、あまたの強豪チームを破り、栄えある全国優勝を勝ち取ったドラマが展開される。著者は、永く新日鉄に勤め、広報を担当している人であるが、自分の生まれた年に優勝したチームのことを書くことには、かなりの調査をしたに違いない。自分のことを語らないこのような自分史もある。わたしも、八幡をライバルとした日鉄二瀬チームの戦績を追ってまとめた経験があるので、調査の労苦とその文量に特別の関心をもちながら読んだ。 瀬尾河童「少年H」上・下(講談社文庫)は、一気に読み終えた。小説と銘打ってはいるが、これは自伝でもある。単行本出版の折から読みたいと思っていたが、気がついた時は文庫になっていた。河童さんは、あの緻密な画風と同様に、少年時代のことを克明に書いている。今のこどもに読ませたいために、ルビ入りで大きな活字になっているのがうれしい。戦時中のことは、神戸ばかりでなく、九州でも似たようなものだったと思う。読みながら同感するところが多かった。 三木のり平・聞き書き小田豊二「のり平のパーッといきましょう」(小学館)は、今年一月二十五日に亡くなったコメディアンのり平の一代記である。小田がのり平にインタービューしながら録音し、それを起こしたもので、のり平が今にも耳元でしゃべっているような感じすらする。日大芸術科の学生の頃から演劇と関係があり、それも舞台美術からこの道に入ったというのは初めて知った。昭和三十五、六年に出演した「雲の団五郎一座」(東京宝塚劇場)は、腹を抱えて笑った公演だった。以来わたしは、のり平のファンになった。出演映画はビデオに残っているが、公演のビデオはないそうで、ビデオの草創期のころのことなので残念なことだ。また、書中に夫人の女優水町映子が昭和二十四年頃、筑豊に公演に行っていたことが記されている。今の西町・医師会館の場所にあった吾妻座や後藤寺の丸山劇場の名前が出てくる。東京と九州に離れた二人の間に交わされた甘いラブレターが公開されている。吾妻座の名前が出たことで、昔の飯塚を思い出してしまった。吾妻座といえば、その後映画館になり、ここでわたしはジョン・フォード監督の「駅馬車」を見た。確か昭和二十五、六年頃の夏の夜だったと思う。満員の観客だった。それにしても、のり平は、立っているだけで、笑いを誘う何物かをもっていた。まだまだ彼の姿を見たかった。ファンとして冥福を祈りたい。 続いて、大橋巨泉の「生意気−東京下町青春記−」(三天書房)。彼は昭和三十年代に「イレブンPM」の司会者として、テレビ界に躍り出てスターになった。この本は、彼の高校時代の日記が最近出てきたことから、出版された。わたしも彼と同世代であり、自分の高校時代と比較しながら読んだ。見た映画も同じようなものが多く、野球などにも同じような興味をもっていた。ただ、読書の分野とその量には、脱帽である。また、彼は当時から俳句に熱中していた関係で、巨泉という俳号がついたということを知った。 わたしは同世代の人の「自分史」に関心があり、眼に止まり次第読むことにしている。以上読んだ本に刺激されて、わたしも、そろそろ自分史を書こうかなと思い始めている。(一九九九年六月) | ||||