わたしの読書あれこれ(その);第十六回目
諫山 禎一郎
  九月号で立花隆氏の恐るべき読書歴に感心したことを書いたが、私自身の読書歴を思い起こすと、いかに晩生であったかと思う。

 まず、稲築町下鴨生の三菱鉱業鯰田五坑社宅のわが家には、本が少なかった。これは、我が家だけのことではなく、周りの学友宅も同様であった。加えて戦時中のこと故、当時通学していた鴨生の稲築第二国民学校(今の小学校)は、昭和十八年に全焼で再建されず、三井山野の炭住を改造して授業があり、当然図書室なんかはなかったので読む習慣もつかなかった。今考えると、あんな劣悪な環境でよく小学生時代を過ごしたものだと思う。ただ、父が戦前、冨山房発行の「国民大百科辞典」という二十冊位の百科辞典を揃えていてくれたことが幸いして、戦時中の何もない生活での知識欲を満たしてくれたことを思い出す。戦後の昭和二十一年夏に、父の転勤で庄内村有井の三菱鯰田四坑に移り、翌春仁保国民学校を卒業した。考えて見ると、われわれの学年だけが、国民学校入学、国民学校卒業という貴重な経歴をもっている。中学は新制中学になったたばかりで、庄内中学には図書室があったかどうか記憶がない位、本との接触はなかった。

 読書に熱中し始めるのは、嘉穂東高校に入ってからである。一、二年生のころ、仁保国民学校の卒業時の担任の熊香子先生が、河出書房の「現代日本小説大系」という全集を毎月購読されていて、読みたければいつでもどうぞといわれたからである。小田切進編「日本近代文学年表」(小学館刊)を見ると、この全集は昭和二十四年四月三十日刊行開始(全六十五巻)とあり、これは戦後の全集ブームの走りである。読んだら返し、また借りるサイクルで大半を読破した覚えがある。続いて同じ河出書房の「世界文学全集」四十巻も読んだ。これが私の本格的な読書の原点であろう。中学では一年下で、現在中央大学法学部教授の住吉博君と二人で先生宅を訪問したり、回し読みをしたり、感想を述べあったのも懐かしい。住吉君は、庄内中学から麻生塾高校へ、そして通信教育で中央大学に学び、教授になった希有の人である。熊先生は結婚されて、南崎先生といい、田川郡糸田町に住んでおられ、先年お訪ねした。

 庄内中学の時、学校新聞の編集に参加し、記事を書き始めた。新聞の印刷は、鞍手郡小竹町の西尾印刷というところを利用した。校正のため、よく庄内・綱分の中学から徒歩で前記の住吉君たちと通った。今考えると、よく歩いたものだと思うが、当時はイヤなこととは少しも思わず、自分たちの原稿が活字になるという快感を得る楽しみで一杯だったように思う。その新聞部の指導は、白土大輔先生で、熱血漢という印象の先生であった。当時門司にあった毎日新聞西部本社の見学に、部員を引率していただいたこともある。先生には、中学卒業後も読書のおもしろさと学問の奥深さを教えられた。よく頴田村西佐与の先生宅を訪問したものだった。中学では担任でもなく、当世流にいうと部活だけでのおつきあいであったのに、大きな影響を受けたのも不思議なご縁だと思う。先生に薦められ、読んで思い出に残る本は、阿部次郎の「三太郎の日記」、和辻哲郎の「古寺巡礼」などである。亡くなられたのが確か平成五年であるので、もう四年にもなる。先年、先生が二瀬中学校長の頃、学校に訪問したが、その時も庄内中学の時と変わりがない位、若々しく、正に談論風発といった思い出がある。一昨年秋、飯塚市上三緒の先生宅に奥様をお訪ねして、書斎を拝見した。書斎には、たくさんの本があったが、岩波書店刊の日本思想体系を揃えられていたので、その中から私の読みたかった海老沢有道ほか編「キリシタン書・排耶書」など数冊を、形見にいただいた。

 わたしの青少年時代を思い起こすとと、教師の影響力は大きなものだと思う。また、こどもの頃の読書が、文章作成力の養成には、かなり影響を及ぼすのではないかと思う。それには、いつでも読める環境、適切な指導と刺激が必要であろう。青少年時代の貧困な読書環境の反動で、現在狭いわが家は本で一杯で、妻と娘にいつも整理するように、文句をいわれている。(一九九七年十月)